河北新報社の記事です。下記のリンクに掲載されています。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110415t63035.htm
1000年続くお祭(相馬野馬追祭)が被災地の南相馬市で従来どおり7月に開催の運びとなっています。私も何かこれに応援させていただこうと思いアクションを起こします。津波と原発にまともに被災されて、いまだに行方不明者も多い中開催されるという、すごい決断と判断に敬意を表すと共に、被災地で「被災地の皆さんに元気になって欲しい」という思いで開催されるという事に心から応援したいと思います。よし。私も祭り衣装屋として応援できることはトコトン応援したいと思います。 愛感謝
以下原文のまま↓
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染め工場で、作業中ののぼりに触れる西内さん。
注文のあった神社は春祭りを前に津波で流された。
「仕上げることが供養になるのかな」=南相馬市原町区
ふんばる 3.11大震災/野馬追は絶やせない
◎旗指し物作り、再起決意/染め物工場3代目・西内清祐さん(48)=南相馬市原町
ぴんと硬く張ったままの白い生地を手に取り、積もったほこりを払う。
「のりが乾いて割れている。これじゃもう駄目だな…」
南相馬市原町区の「にしうち染工場」。あるじの西内清祐さん(48)は6日、震災後初めて仕事場に足を踏み入れた。
3月11日。市内の神社の春祭りののぼりを作っていた時、地震が来た。
築80年を超える木造の工場は大きく揺れ、頭上の木の板がガチャガチャと鳴った。「落ちてきたら死ぬ」と思いつつ、のり付け中の白いのぼりを握りしめてかばった。
揺れが収まるのを待って母屋に駆け込むと、両親と妻、1男1女、犬1匹の家族は無事だった。
福島第1原発の事故が起こり、「屋内退避」とされた半径30キロ圏内の自宅を離れたのは同14日。親類がいる山形県内に移り、その後、山形市内の避難所に身を寄せた。
工場は1930年の創業。3代目の西内さんは26歳から、父清実さん(78)の下で修業を積んだ。往時のかいわいには、ざっと30軒の染め物工場があった。最後の1軒となり、「俺がやらなくなれば終わり」と言う。
染め物は、一つ一つに手間暇が掛かる。染料をはけで塗る。川にさらす。お天道様の下で乾かす。「一つ作るのに1週間以上もかかる。けれど、昔ながらのやり方で、うちにしか出せない色の深みや質感を出すんだ」
相馬地方に伝わる「野馬追」(国重要無形民俗文化財)。馬にまたがって野を駆ける甲冑(かっちゅう)武者たちの旗指し物を染めてきた。
旗は地元騎馬会の家ごとに独特の意匠があり、「その年に手掛けた旗は、500騎以上の武者の中からでも分かる」。
7月恒例の相馬野馬追祭に向け、いつもなら4月は工場が最も活気づく時期だ。「まさか原発で、工場が危機に立たされるなんて。野馬追もこれまでか…」と落ち込んだ。
そこへ3月24日、携帯メールが飛び込んだ。友人の相馬市職員、遠藤真さん(45)からだった。
「相馬地方復興のキーワードは野馬追。西内さんがお仕事をしないと、旗指し物ができません」
文面を見て深呼吸した。「やるしかない」。工場再開の決意が湧き起こった。「ずっと生きてきた街に骨をうずめて、俺らはナンボのもん」
工場と自宅を見に一時帰宅した6日、先月末に戻っていた両親も交え、久しぶりに一家で夕げを囲んだ。地元高校の再開見通しが立たず、妻と子どもは山形でアパートを借りるという。離れ離れになるが、「命があればまた一緒に暮らせる」。
今夏の相馬野馬追祭開催への道はまだ険しそうだ。
馬や甲冑を家もろとも津波で流され、地元に戻れない担い手もいる。
「原発事故の風評もあり、お客さんが来てくれるかどうか。でも、相馬の伝統と心をつなぐため、野馬追は絶やせない」
9日。工場には、およそ1カ月ぶりに明かりがともった。(浦響子)
2011年04月15日金曜日
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以上コピペです。
愛感謝